人形浄瑠璃「文楽」を鑑賞しました

bunraku2023歌舞伎、文楽、そして能。

日本文学科では日本が誇る伝統芸能を学ぶ「伝統文化教育プログラム」を毎年実施しています。

6月1日(木)にはその第一弾として、プロの能楽師を大学にお迎えして特別講義を開催。7月15日(土)には第二弾として「松竹大歌舞伎」を鑑賞。

いよいよ第三弾です。
10月17日(火)の夕方、1年生全員と2年生以上の希望者で人形浄瑠璃「文楽」鑑賞のため劇場に赴きました。

今回の舞台は電力ホール。
夜の部の演目は「桂川連理柵」 六角堂の段 / 帯屋の段 / 道行朧の桂川 です。

歌舞伎に引き続き、参加した学生たちは大変楽しんだようです。
せっかくですので、この度も学生たちの感想を一部抜粋して紹介いたします。
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「道行朧の桂川」で「白玉か何ぞと人の咎めなば露と答えて消えなまし物を思ひの恋心それは昔の芥川」と義太夫の方が語られていました。この部分を聞いたとき、既視感を覚えました。『伊勢物語』の中に収録されている「芥川」に登場する歌であるということに気づいたのです。「白玉か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを」という歌の「問ひしとき」という部分を、「咎めなば」という言葉に置き換えていたのです。
高校の授業で「芥川」で歌われているこの歌は、男が女を失ってしまった喪失感を詠んだものであり、非常に儚いものであるということを学んだ記憶があります。
男と女が禁断の恋をしてしまったように、長右衛門とお半の関係性も禁断であると思います。「道行朧の桂川」のこの歌には、昔の芥川で起こった男と女の物語を想起させるだけでなく、これまでのコメディーちっくな場面と異なった印象を与える効果がありました。非常に短いセリフではありましたが、このセリフによって心奪われ、感銘を受けました。

MicrosoftTeams-image (27)夫、三味線、人形遣いの三業から成り立っている人形浄瑠璃をそれぞれに注目して観劇したことで、違う役割を担っているのにも拘らず何一つ邪魔になることなく、一つの演目となった時のまとまり、完成度の高さに改めて驚かされた。
歌舞伎に続き二つ目の伝統芸能観劇であったが、本物を自分自身の目で見て、自分のものにすることの大切さを実感できた文楽観劇であった。

はり実際に自分の目で見ないとできなかった発見は沢山あり、驚きの連続でした。
まず太夫・三味線の皆さんですが、それぞれの担当する段が始まる前、太夫さんが必ず台本に向かって一礼していたのが印象的でした。脚本を書いた人に向けてのリスペクトもあると思いますが、登場人物も含め、シナリオそのものへのリスペクトもあるのではないかと思いました。太夫さんの声の使い分けは圧巻でしたし、三味線が奏でる音は会場の雰囲気を操っているように感じました。先生が講義中におっしゃっていた「三味線は単なる伴奏ではない」という言葉の意味が分かったような気がします。

MicrosoftTeams-image (26)演前、会場の受付ロビーでは人形のお出迎えがあり、一緒に写真を撮らせていただいた。その際、人形の手を触らせていただけるという貴重な体験をすることができた。人形の手は想像していたよりも小さく、そして温もりが感じられた。温度としての温もりもだが、動きや仕草で私たちを歓迎してくれていることが伝わり、心が温まった。人形は間近で見ても非常に人間らしく本当に生きているかのようであり、改めて人形遣いの技術力の高さに感嘆した。

回の文楽の観劇を通して、文楽は人形に命を吹き込み、観客をその世界に引き込む日本が誇る伝統芸能のひとつである、と実感した。授業で映像資料として視聴した文楽ももちろん迫力はあったが、実際に観劇してみると、人形が笑った時に口も動いていたためか、カタカタと音が響いており、心の底から面白いと思って笑っているように感じられた。さらに椅子に座る際の座り方も一通りではなく、例えば儀兵衛の「よっこいしょ」と言っているかのような座り方がとてもリアルで、人形のはずなのにいつの間にか人形ではなく人間として、文楽、いや演劇を見ているような感覚に陥った。
観劇中、授業で視聴した、人形遣いが自分が遣う人形の衣装を仕立てている映像が脳内を過り、そこで私は、人形遣いと人形の絆がそこにある、と確信した。

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「伝統文化教育プログラム」は第三弾で終わりとなりますが、今年度はさらに第四弾も企画しています。
能楽師によるワークショップ。皆さん、お楽しみに。