キになる言の葉 ミになる話 ―「殺生石」の巻 ―

キになる言の葉 ミになる話 

 ―「殺生石」の巻 ―

深 澤 昌 夫(日本文学科 教授)

今日は4月8日。花祭り。お釈迦様の誕生を祝う日である。とりあえず縁起もいいので?今日から日本文学科の新企画をスタートさせよう。

「キになる言の葉 ミになる話」は日文の教職員がその時々で興味・関心のある話題を独自に掘り下げる新コーナーである。内容としてはエッセイ、随筆、研究余滴。テーマも分量も特に定めていない。文体や書き方も人それぞれ。皆さんも気軽にお付き合いいただければ幸いである。

さて、一回目はどんな話だろう?

                                         

今からひと月前、2022年3月5日、殺生石が真っ二つに割れているのが発見された。

殺生石は栃木県那須岳にある。松尾芭蕉もみちのく行脚(あんぎゃ)の途中、当地を訪ね、「那須の篠原を分けて、玉藻の前の古墳をとふ。…殺生石は温泉(いでゆ)の出づる山陰(やまかげ)にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほど重なり死す」と記している。元禄2年(1689)陰暦4月19日のことである。

そのとき芭蕉の念頭にあったのは能の『殺生石』である。

能『殺生石』には廻国修行の僧が登場する。名を玄翁(げんのう)という。旅の途中、那須野の原にたどり着いた玄翁は石の周辺に鳥たちが落ちてくるのを不審に思い、近づこうとして里の女に止められる。聞けば「それは那須野の殺生石とて、人間は申すに及ばず、鳥類畜類までも触るに命なし」。そもそもこの石は「昔、鳥羽院の上童(うへわらは)に玉藻の前と申しし人の執心の石となりたる」ものであるという。

深夜、仏事を営む玄翁の前で殺生石は二つに割れ、中からまばゆいばかりの光とともに玉藻の前が出現する。その正体は天竺(インド)、唐土(中国)、本朝(日本)、三国を転生して「王法」(王の定める法=秩序、また法に則って行われる政治)に災いをなさんとする野干(やかん=野生の獣、ここでは狐)であった。

鳥羽院の御代(平安末期)、陰陽師安倍泰成(安倍晴明七世の孫)によって正体を見破られた玉藻の前はいったん那須野に逃れるが、勅命をこうむった三浦の介や上総の介、東国の武士たちによって追い詰められ、ついに射ころされる(これが武士の鍛錬として行われる「犬追物」の起源とされる)。

だが、さすがは妖狐。仮にその身は滅びても、その執念・悪念は容易に滅びず、むしろかたくなに凝り固まって岩石となり、人であれ畜類であれ、近づくものたちの命をことごとく奪うようになった。後世、人々はそれを「殺生石」と呼んだ。

                                         

日本の古典文学はその最初期から仏教思想の影響を多分にこうむっている関係上、能『殺生石』でも玄翁が玉藻の前を成仏させる、つまり御仏の教えが邪悪なものに勝利し天下・国家・国民を守護する、という結末が導かれているが、玉藻の前の悪念=殺生石の毒気はそれで完全に無力化されたわけではない。

殺生石のある一帯は、そもそも温泉地帯=火山地帯であり、その周辺は今でも火山性の有毒ガスが発生している。ガスの影響で草木も生えないから岩肌もむき出しで、噴火によって吹き飛ばされた奇岩・巨石がゴロゴロ積み重なっている。温泉のある場所に「○○地獄」「地獄谷」など、おどろおどろしい地名が多いのもそのためである(鳴子の奥にある「鬼首」や群馬嬬恋の「鬼押し出し」なども同様である)。

温泉は今でこそ我々日本人が愛してやまない「癒しのリゾート」であり、人々が休暇や余暇を楽しむために出かける行楽地・保養地、また観光名所として栄えているが、同時にそこはまた、草木も生えず、生き物が棲むことのできない「死の世界」=「黄泉の国」への入口でもあった。いや、だからこそ我々が病気やケガ、あるいは日々の疲れを「癒し」に温泉に行くのは、象徴的にこの世とあの世の境界で死と再生を成し遂げる「復活の儀式」=「黄泉がえり」ということになるわけである。

かくして殺生石も、数百年の間、人が安易に近づいてはならない危険な場所として語り継がれ、またその正体とされる玉藻の前も、玄翁和尚の法力で安らかに成仏するどころか、時代が下るほどパワーアップしていくことになる。

                                         

 

玉藻の前のパワーを視覚的に表現しているのはその「尻尾」であろう。その正体は「九尾の狐」とされ、その長く大きくふさふさとした(見ようによってはかわいい?)「尻尾」は玉藻の前というキャラクターのシンボルになっている。

だが、玉藻の前が「九尾」になったのは江戸時代の話であり、室町時代はせいぜい「二尾の狐」であった(「九尾の狐」は中国明代の神怪小説『封神演義』によるところが大きいとされる)。もちろん、それだって「猫また」同様、ただの狐ではないけれど、玉藻の前のイメージや属性も時代とともに進化?というか、アップデートしていったのである。

 

ではここで、日本にビジュアル文化が根づいた江戸時代に玉藻の前や殺生石、九尾の狐がどのように描かれていたのか、少し紹介しておこう。

 

其の二へつづく