【備忘録 思索の扉】第十一回「「意味がわかる」ということ」

「意味がわかる」ということ

少し前になりますが,今回の年末年始は,小4の息子と「百人一首」にいそしんでいました。
こう言うと,家で「競技かるた」をしていたと思われそうですが,そうではありません。
「百人一首」を全部覚えよう,となったのです。唐突のことですが,これにはいきさつがありました。

昨年末,息子が冬休みに入った頃,こんなことを言ってきました。
「学校で百人一首というものを教えてもらい,100人の歌のプリントをもらった。冬休みに覚えろって。」
なるほど,そんな時期か……なんて思いながら,そのプリントを眺めると,
なんとというか,案の定というか,ただ歌と歌人の絵が並んでいるだけで,
それぞれの歌の現代語訳なり解説なりは,全くないのです。
学校がこんなものを意味もわからず丸暗記させようとしていると思うと,残念になりました。
そこで,次の日,本屋に行って,解説つきの「百人一首」の本を買い,
それを読みながら,1日10首,10日で100首を一緒に覚えよう,となったのです。

「百人一首」は,もちろん,古文ですから,覚えるのはかなり大変です。
そして,古文だからかゲームだからか,意味まで覚えるべきだと思う人は,ほとんどいないような気がします。
それでも,私は息子に,意味をちゃんと理解するように,厳しく(?)言いました。
たとえば,歌を覚えられないとき,「どんな歌だった?」と自分の言葉で説明させるのです。
歌の意味がわかっていないから覚えられないのだ,ということをわからせるのです。
これは,一見すると,無駄にハードルを上げているだけの,厳しい父親にしか映らないでしょう。
しかし,私は,その方が覚えられるし,またずっと覚えていられると,確信していました。
私の言う「頑張る記憶」ではなく「自然な記憶」の出番だ,というわけです。

例を挙げると,第一首の天智天皇の有名な歌があります。
秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ
ここでは講座は省きますが,よく聞くことには,この下の句の「わが衣手は 露にぬれつつ」という部分が,
光孝天皇の「わが衣手に 雪はふりつつ」と混同してしまう,というのです。
これはまさに典型的な丸暗記の弊害で,「秋の田」に「雪」がふるわけがありませんから,
歌の意味さえわかっていれば,間違えようのないことなのです。

また,そもそも,意味もわからずに言葉だけ覚えるという行為が,むなしく感じてならないのです。
外国語を勉強するとき,1語1語に「意味と感情を乗せること」が大事だと,以前,書きました。
これは古文についても,さらには現代日本語についても同じことが言えます。
これを実践することの大切さが,いかに理解されていないかを,今回痛感することになりました。

おそらく,この話を読んだあとでも,少なからぬ人が,
「いやいや,「百人一首」なんてゲームだし,ときには丸暗記も大事でしょう」と思うことでしょう。
少なくとも,意味もわからず言葉を発することに,私ほどのむなしさを感じる人は,あまりいないでしょう。
それでも,私はこの「意味がわかる」ことの大事さを説き続けていこうと思います。

ところで,息子は特訓(?)の成果あってか,学校では「かるた大会」が大得意になっています。
小手先の戦術など知らなくても,たくさんの枚数を取れているようです。
このままいけば,中学校以降の古文の授業も,きっとよく理解できるでしょう。
昔の人の感じたこと,考えたことが理解できるというのは,素晴らしい経験だと思います。
そして何より,「意味を感じながら言葉を発する」ことが当たり前になってくれれば,
他のあらゆることに応用できる習慣が身についたと言え,これほど喜ばしいことはありません。

ちなみに,私も100首全部とまではいきませんが,大部分を覚えることができました。
世の多くの人が意味のわかる学びをできるようになることを,願ってやみません。

小羽田誠治 中国語・東洋史学)