【備忘録 思索の扉】第十回「書き初めの思い出」

新年あけましておめでとうございます。今年も、一般教育部教養教育ニュース「備忘録 思索の扉」をよろしくお願いいたします。

さて、今年のお正月は「書き初め」をしました。手本の文字を優等生然と丁寧に再現した姪の書き初めの文字を眺めていて、自分も久しぶりにやってみたくなって、紙を分けてもらい、お題の「世紀の祭典」(2年後の東京五輪を見越してのお題のようです)に挑戦しました。私の書き初めをそばでジッと眺めていた姪は、ふたたび筆をとり、今度は手本にはない強さと大きさで、躍動感ある作品をまとめました。ところが彼女は、「うーん、なんか、うまくいかないけど、でも……」と、むしろ困ったような表情でこちらを見るのです。
私は思わず吹き出してしまいました。ふと、30余年前、中学校の時の思い出がよみがえったからです。

私はもともと、正月休み明けに提出を課される書き初めの宿題はわりに好きでした。生徒たちの作品が教室の壁に貼りだされ、優秀作品に選ばれたものに金、銀、赤の短冊が貼られます。私の作品には、色の違いこそあれ、毎年短冊が貼られていました。じつは、中学3年生のときに一度だけ、金の短冊を貼ってもらえたことがあります。しかしこれにはちょっとした裏がありました。
小学校時代から一貫して、必ず金賞を取り続けていた友人と、中学3年でたまたま一緒のクラスになりました。中学最後の年の瀬に、私は彼女に書き初めの宿題を一緒にやってくれるように頼みました。彼女は快く引き受けてくれました。
年が明け、約束通り一緒に書き初めをしました。彼女は私に「紙の白いところが少なくなるように、大きく、ふとーく書くんだよ」と言いました。アドバイスを忠実に守り、私は勇気を出して、自分では見たこともないようなずんぐりとした太い線の文字を書きました。不安になって、「なんか変かな?」とたずねましたら、友人は「大丈夫だよ」と言ってくれました。そのあと何度か書き直しましたが、これよりもましな作品を書くことができず、私は結局、あの「ずんぐり太い線」の作品を、宿題として担任の先生に提出しました。
宿題を提出した翌日の朝、いつもより早めに登校した私は、自分の作品に金の短冊が貼られているのに衝撃を受けました。件の友人の美しい作品は、銀賞でした。しまった、と思いました。「金と銀をこっそりつけかえようかな、今ならだれもいないし」一瞬そんな考えがよぎるなか、他のクラスメートたちが登校してきました。私はうつむいて、そのまま自分の席に戻りました。

あのときの私と、今年の正月の姪。両者には、ひとつ共通点があります。二人とも、自分の表現の進化をよいものとしては自覚していなかった、ということです。それどころか、自分の作品を「どこかおかしい」「変だ」とさえ考えていた。これはおそらく、「おかしくないもの」「成功作」というものがあらかじめ想定されているからなのでしょう。では「成功作」というものは果たしてカタチとして存在しうるものなのでしょうか。確かに、先人による手本なるものは存在するでしょう。けれども、お手本のとおりに丁寧に書こうとしても、優等生然とした力のない作品にしかならないのは、姪の試作品の例を見ていても感じたことです。
「成功作」というのは、想像はできても、その想像はそのままカタチを取らないのかもしれません。逆に言えば、カタチになったものはみな、自分にとっての「成功作」ではありえず、「成功作」に至る過程の断片でしかないのかも知れません。
自分らしい表現とはそもそも、「おかしい」「失敗作」の延長線上にあるのかもしれないと、今振り返ってそう思います。その表現の「うまさ」を図る物差しなどないのですから、むしろその表現にたどり着きたいと願って残される試作―思索の断片の積み重ねによって、今後の物差しを作っていくよりほかはないのかもしれません。
なお、このエピソードには、もう一つ興味深い論点が含まれています。それは、「勇気」です。「大きく、ふとーく書く」という、これまで自分がやったことのないことをするには、勇気が必要でした。この論点については、またいずれの「思索の扉」で書きたいと思います。

【なお、このエッセイは、一部フィクションである可能性があります】

間瀬幸江(フランス語・フランス文化論)