【備忘録 思索の扉】 第九回 「良いもの」と自分

今年の夏もそろそろ終わりです。
夏の大きなイベントと言えば,例年通りの高校野球と,今年ではオリンピックが盛り上がったでしょうか。
私自身は,どちらにもあまり関心はなかったのですが,
外に出てテレビの放送などを見ると,大抵それらが目に入ることになりました。
そして,もれなくついてくるのが,観衆の一喜一憂するコメント(野次を含む)でした。
そんななか,ふと思ったことがありますので,今回はそれをテーマにしようと思います。

誰もが指摘しているように,今の時代は,情報やモノにあふれています。
そのおかげで,私たちはあらゆる方面で,「質の高いもの」にほぼ簡単に接することができます。
スポーツを例にとると,上に出たオリンピックや,おなじみのプロ野球などがそうでしょうか。
音楽では,たとえコンサートに行くのが面倒でも,CDを買ったり,ネットからダウンロードしたりもできます。
本屋に行けば古今東西の名著が手に入りますし,電器屋では最新技術の家電も並んでいます。
これは自分たちの趣味や生活を豊かにするには願ってもない環境ですし,
同時に「良いもの」や「レベルの高いもの」を見分ける「感覚」も養われていくことになるでしょう。
だからこそ,オリンピックで選手の健闘を称える一方で,不本意な結果を悔しがる観衆もいるのでしょうし,
普段プロ野球を見慣れた人たちにとっては,ミスの多い高校野球につい野次を飛ばしてしまうのでしょう。
もちろん,世界の壁や高校生らしい未熟さを感じて,逆に感動を覚える人もいることでしょう。

しかし,そうした「目を肥やす」ことには,大きな落とし穴もあるように思えます。
つまり,目を肥やした「自分」の存在を見つめることが,かえって難しくなっているのではないかと思うのです。
外の華々しい世界に目を奪われて,「自分は何ができるのか」を考えにくい,ということです。
あるいは,仮に自分が何かを目指そうとしても,理想が高すぎて地に足がつかない,ということでもあります。

どんなに素晴らしいプレーや演奏,作品,製品も,突然天から降ってきたわけではなく,
それぞれの人が地道な練習や試行錯誤を積み重ねた結果,やっと表れてきたものです。
けれども,当事者以外は大抵,その過程を知らずに,結果だけを見るものですから,
良いものをお手軽に楽しめる一方で,そこにたどり着くまでの道のりにまるで気がつかないのです。
そうすると,「それらがどのようにしてできたのか」を実感して理解することはなかなかできませんし,
「自分ならどうするか」あるいは「どうすればそこに到達できるか」が,わからなくなってしまうのです。
自分の生活を豊かにするためのものが,自分自身を豊かにしないというのは,全く皮肉なことです。
おそらく,ひと昔前であれば,「すごい人」というのは自分の周りにいる人の誰かであり,
もしそうであったら,その人は,自分と重ね合わせることができ,進むべき道を示してくれたことでしょう。

とはいえ,今さら現代社会をのろっても仕方のないことだと思います。
私たちができることは,今の自分の姿を見つめ,理解し,そのうえで世の中を見ることでしょう。
そうすれば,自分が本当に素晴らしいと思うものを,より深いレベルで見つけることができるかと思います。
そうなったときには,自分をもっと大切にし,成長させたいという気持ちも,きっと強くなるに違いありません。
自分でできることを見定め,肯定し,そのうえでレベルの高いものと接する。
これが自分を見失わずに生きられる,世の中との賢い付き合い方だと,私は思っています。

小羽田誠治 中国語・東洋史学)