【備忘録 思索の扉】十四回 中世ドイツの笑いの性格(8)~使徒ペトロのバケーション~

wolfsburg angel edited引き続き、16世紀ドイツの劇詩人ハンス・ザックス(1494年-1576年)の作品を見てみましょう。彼の謝肉祭劇に登場するキャラクターは、おおむね作者と同時代の威勢のいい庶民たち。あるいは、ルネサンスの時代らしく古典文学から取られたギリシア・ローマの人物たちであり、聖書のキャラはあまり姿を見せません。数少ない例外作の1つが「聖ペトロ、地上の縁者と打ち興ぜし次第」(1554年)という劇ですが、このストーリー、聖書よりも中村光の人気コミック『聖☆おにいさん』に近いです。

話の主役は、イエスの12弟子の一番弟子であり、今は天国の門番を務める使徒ペトロ。その彼にとって唯一心残りなのは、故郷にいる親類縁者たちに暇乞いもしないで天国に来てしまったこと。そこでペトロはイエスの許可を得て、3日の約束で地上に戻らせてもらいます。

 

ペトロの縁者たちというと、歴史的に言えばパレスチナ・ガリラヤ地方の漁師であるはずですが、なにぶんこれは笑いが命の謝肉祭劇。史実はさておき、出て来る親戚たちは「いとこクラース」「縁者ハンス」というように、ザックス時代の農夫たちです。いきなりやって来たペトロを見て、彼らは「幽霊が出た」とびっくり仰天。ようやく相手が誰であるかを理解すると、再会を祝して「たっぷり飲んだり食ったりするべえ」とペトロを誘い、「ベーコン菓子に、パンケーキ、ゼリー寄せ肉、胡椒入りの肉、肉詰め、ハム、焼肉」(藤代・田中訳。いずれもドイツのご馳走)を用意すると提案。大喜びで彼らについて行ったペトロ、連日痛飲して遊び回り、二日酔いで頭痛がしきり。3日どころか9日も経ってからようやく天国へ帰り着き、気を揉みながら彼の帰りを待っていたイエスに迎えられます。(劇の後半は教訓くさくて面白くないので、ここでは省略)

それにしても、12人いるイエスの弟子たちの中で、なぜペトロだけがこうしたおどけ役になるのか。実は、聖書に描かれている実際のペトロもなかなか愉快な人物なのです。根が正直でまっすぐな心をもった熱い男なのですが、いささか見栄っ張りでおっちょこちょい。言わなくてもいいことをよく言って、しばしばイエスにたしなめられています。それでも、大声で笑うことも大声で泣くことも知っていそうなその人間性は、人の心を打たずにおきません。こうした素地があるので、ザックスの劇のみならず『聖☆おにいさん』でもペトロは「愛されキャラ」として輝いているのですね。

もっとも、聖書をよく読めば、イエス自身も相当ユーモアセンスがあるキャラであったことが分かります。日本人が持っているイエスのイメージというと、「崇高な倫理を説いた聖人」という近寄りがたい感じがしますが、実際のイエスは、上から目線な論敵たちに鋭いツッコミを入れ、スパイスのきいた言葉や小話を語って世の人々の常識をひっくり返して回った人物でした。その上、宴会好きでもあったことは、その生涯の話にたびたび食事の場面が出て来ることからも分かります。だからこそ、「罪人」と見なされて世間で蔑視されていた人々が、救いを求めてイエスのもとにやって来たのですね。

ザックスの劇でも、飲んだくれて恐縮顔のペトロのことをイエスはあたたかく迎えています。とかく敬遠されがちな聖書ですが、笑いの視点から見れば、実は謝肉祭劇やコミックに負けないぐらいユーモアに富んでいるのです。 (栗原健 キリスト教学)

*   参考: 藤代幸一・田中道夫訳『ハンス・ザックス謝肉祭劇全集』(高科書店)