【備忘録 思索の扉】十三回 中世ドイツの笑いの性格(7)~地中の宝の魅力~

kirchenruine  今回も16世紀ドイツの劇詩人ハンス・ザックス(1494年-1576年)の謝肉祭劇を見てみましょう。ザックスが描いたのは、生命力あふれた庶民たちのおどけ話、軽快なドタバタ劇ばかりではありません。中には、登場人物全員が死んでしまうというおどろおどろしい作品もあります。タイトルは「切株の中の死神」(1555年)。

ストーリーは、1人の信心深い隠者が森の中を歩いている場面から始まります。祈りを唱えようとある切株に腰かけたところ、どうも違和感がある。調べてみると切株の中は空洞になっており、金貨が山ほど入っていました。「この金で貧者を助けては」と考えたものの、そこは無欲な世捨て人のこと、「いやいや、これは他人のもの。下手に触れれば災いのもとじゃ」と思い返し、彼は急いで立ち去ろうとします。

折悪くそこへ登場したのが追剥ぎの3人組。挙動不審の隠者を見つけて、「何を慌てているんだ」と捕まえます。「あの切株の中に死神が見えた」との返事に、からかわれていると思った彼らは隠者を剣でバッサリ。「その死神とやらを見てやろう」と切株を覗いてみれば、中には輝くお宝が。大喜びした盗賊ども、「まずはパンとブドウ酒で祝おうぜ」と仲間の1人を町に買物に行かせます。

しかし、大金を前にして、残った2人の心に欲がムクムク。「(町に行った)あいつを消せば、俺たちの分け前も増えらあ」と話がまとまり、帰って来た仲間を殺します。ひと安心してワインを腹に流し込みますが、死んだ仲間もさるもの。2人と同じことを考えて酒にもパンにも毒を盛っていたのでした。かくて、宝をめぐって4人全員が非業の死を遂げ、「貪慾こそはあらゆる罪の根源」という教訓で幕が閉じます。笑っていいのか、泣いた方がいいのか。複雑な気持ちにさせられますね。

それにしても、なぜ森の中に宝が埋まっているのか。実は、「地中の宝」というモチーフはドイツの伝承世界ではおなじみのものです。貴重品を安全に保管する手段が限られていた時代、戦禍などを避けて宝を地中に埋めることは珍しくなく、持ち主が死んでしまってそのままになることもあり得ました。切株の中に金貨が隠されていてもおかしくはなかったのですね。このため、ザックスの時代には、山野や廃墟に出向いて宝を探そうとする輩が少なからずいました。

こういう欲張りが多ければ、それを利用する詐欺師が出て来るのも自然なこと。ザックスより僅かに後の時代に、彼の地元であるニュルンベルク一帯で宝探しをダシに荒稼ぎをした女性詐欺師がいました。その名もエリーザベト・アウルホルティン。「自分には宝のありかを突き止める特殊能力がある」と称し、貴族を含めて多くの者から大金を巻き上げたという剛の者です。

彼女のやり口の一例を見てみましょう。まず、カモの家に赴くと恍惚状態になったふりをし、「この家には幽霊がいます。宝を掘り出さない限り、その魂は天国に行けません」などと言葉巧みに言い聞かせ、家の主人に地面を掘り返させます。その間に、用意しておいた壷をこっそり仕込んでおき、さもその場から掘り出したかのように見せかけるのです。壷の中には炭があるだけなのですが、「これは炭に見えますが、実は純金です。3週間待てば(魔法がとけて)元の姿を取り戻します」と説明して、その間に礼金を持って雲隠れします。

なぜそんな馬鹿げた話を…という感じですが、地中の宝には「幽霊が守護している」とか「魔法がかけられている」といった不気味な伝承がついて回っていたので、オカルトめいたエリーザベトの説明ももっともらしく聞こえたのです。一種の霊感商法ですね。それにしても、階級を問わずお偉方まで手玉に取るとは、彼女の弁舌の才と演技力はずば抜けたものだったに違いありません(ちなみに、彼女は片足が無いというハンディを抱えていました。何となく『宝島』のジョン・シルバーを思い出させます)。このエリーザベトも悪運尽きて1598年2月に首をはねられますが、彼女のような人物を見ると、現実の庶民たちは、実はザックス劇以上にしたたかでたくましかったことがうかがえます。  (栗原健 キリスト教学)
* 参考: 藤代幸一・田中道夫訳『ハンス・ザックス謝肉祭劇全集』(高科書店)