前回に引き続いて、16世紀ドイツの劇詩人ハンス・ザックス(1494年-1576年)の謝肉祭劇を見てみましょう。今回のトピックは、ザックスの作品に登場する社会的偏見について。彼の劇には農民がよく登場しますが、その描写はお世辞にも好意的とは言えないものです。粗野でこす辛く、愚鈍で無知で大食らい。こうしたコミカルな農民像は、実際の彼らの姿と言うよりも、ザックスを含めて当時の都市の市民たちが農民に対して抱いていた偏見の産物と見てよいです。
農民を笑いのめした作品の中でも、特に容赦がないのが「フュンジング村の馬泥棒ととんまな猫ばば百姓ども」(1553年)です。馬泥棒ウルを捕らえたフュンジング村の衆たち、「さっそく奴を縛り首に」と息巻くのですが、絞首台があるのは村の麦畑のすぐ近く。収穫前に処刑を行えば近郷の村から野次馬が押し寄せて、大事な麦が踏み荒らされるのは避けがたい。さりとて、麦刈りが終わるまで死刑囚を養えば食い扶持がかかる。思案の末に彼らは、「『1ケ月後に村に戻って来て、おとなしく刑を受ける』と宣誓させた上で、ウルを自由にしよう」という名案(?)に行き着きます。ウルにも異存のある筈がなし。「こんな阿呆たち、見たこともねえな」と内心呆れつつも、2本指を立てて彼は「必ず戻って来る」と村人たちに誓います。それも、約束の担保にと自分の帽子を差し出してから村を離れるのです。
人質がいない『走れメロス』という感じですが、もちろんウルには、メロスのように行動するつもりはさらさらありません。それどころか彼はこっそり村に舞い戻り、家々から着物やヤギを失敬するのです。
さて1ヵ月後。なかなかウルが戻って来ないのでやきもきしている農夫たちのところに、「ミュンヘンの市場で、ウルに会ったぞ」と村人の一人が言って来ます。「ウルからこの上着を買ったんだ。おらの家には、同じ色の上着がもう1つあるんだがな…」と言うのですが、よくよく見てみれば、なんとそれは自分の家にあるはずの着物。「あの野郎、おらの上着を盗んだ上にこけにしやがって!」と激怒するうちに、一同、だまされたくやしさも手伝ってか、何のかんのと互いに殴り合いをおっぱじめます。物陰からちゃっかりこの騒動を見ていたのが、他ならぬウル。誰も見ぬ間に自分の帽子を取り返すと、「この通り期限にはちゃんと戻って来たぞ。誓いは守った、俺は正直者だからな」と笑います。
民話の世界には「愚か村」と呼ばれるジャンルがあります。特定の村・集落の住民全員が愚か者で、そろってナンセンスな行動を取るという内容の物語です。この「フュンジング村」もそうした「愚か村」話に属する作品と見ることもできますが、ここには単なる笑話的要素だけでなく、農民に対する都市住民の上から目線も透けて見えますね。
こうした蔑視は、教養を身につけて洗練されて来た市民階層の自負心から生まれたものでしょうが、他にもさまざまな要因があったはずです。都市はその地域の経済活動の中心でしたが、都市に食料を供給していたのは周辺の農村でした。偉そうなことを言っていても、市民たちは農民に依存して生きていたのです。その負い目が、ことさら農夫たちを見下す態度につながったのかも知れません。農村部の苦しい生活環境は1525年の農民戦争からもうかがえますが、ザックスの劇には、「百姓たちは実はそんなに苦労しちゃいない。酒を飲んではソーセージを食い、市場で作物を高くふっかけて儲けている」との職人の議論も登場します(詳しくは「六人のこぼし屋」という劇を参照)。これも、農民を搾取しているがゆえにあえてその実態を見たがらない、都市の住民の屈折した気持ちを表しているようにも見えます。
このように、一見ただのドタバタ喜劇に見える作品の中でも、当時の社会の複雑な事情がからみ合っているのです。1つの笑いも実に多くの層から成り立っているのですね。(栗原健 キリスト教学)
- 参考:藤代幸一・田中道夫訳『ハンス・ザックス謝肉祭劇全集』(高科書店)