今回は、前々回に紹介した16世紀ドイツの詩人ハンス・ザックス(1494年-1576年)の作品について見て行きます。ニュルンベルクで靴屋の親方として生きたザックスは、本業のかたわら職匠歌人(マイスタージンガー)として活躍して多数の詩や劇作を残しましたが、中でもよく知られているのが85篇にのぼる謝肉祭劇です。
謝肉祭劇とは、カーニヴァルの季節に町の職人たちによって上演された短い笑劇です。計算高い都市民やがんこな農夫、お調子者の貧乏学生、いかがわしい司祭や腕っぷしの強いおかみさんといったキャラたちが騒ぎを巻き起こして行くものですが、おおむね「類型人物によって動かされ、心理描写や性格描写もないに等しい、いたって素朴な狂言風の茶番」(藤代幸一『謝肉祭劇の世界』、81頁)が多いです。しかし、落語の与太郎や熊さん八っつぁんのように、「類型人物」がくり出すお決まりのギャグこそが実はその文化の笑いのベース。定番こそがいつの時代でも新しい、というのが笑いの世界の面白い点ですね。
ザックスの劇によく見られるパターンが、「人にいっぱい食わせる話」です。いささか後味が悪い詐欺の話もありますが、中には「弱きを助け、強きをくじく」爽快なストーリーもあるので、それを見てみましょう。タイトルは「飽くことをしらぬ貪欲者」、1551年の作品です。
この話の主人公はジンプリチウス(意味は「単純」)なる男。彼は最近千グルデンの大金を手にしますが、旅に出なくてはならないため、資産家のライヒェンブルガー(「金持ち市民」)に金を預かってもらうことにします。しかしこの金持ち氏、実はけちな性分な上に、近ごろは事業がふるわずに悩んでいたところでした。にわかに預けられた千グルデンを見て、欲深なライヒェンブルガー夫人はこの金をネコババするよう夫に勧めます。躊躇する夫とそそのかす妻の会話、中身はえげつないですが、「スケールが小さい、庶民版マクベス夫妻」と見れば笑えます。
ともあれライヒェンブルガーは、旅から帰って金を引き取りに来たジンプリチウスに、「そんな話は知らん」としらを切ります。困り果てた単純君の前に現われたのが、知人のサピエンス(「賢い人」)。預り証はない、証人もいないという彼のピンチを聞き、「正攻法ではムリだな」とふんだサピエンスは、ひと芝居をうつことを提案します。まず、サピエンスの友人の宝石商が重そうな箱をもってライヒェンブルガーの店に行き、「この中に1万2千グルデン相当の宝石が入っているので、預かってほしい」と頼む。そのやり取りの最中にジンプリチウスが店に入って行き、主人に向かって再度「金を返してくれ」とお願いする、というのがその作戦。
結果はいかに。さらなる大金をネコババするチャンスを前にしたライヒェンブルガーは、「ここでジンプリチウスの奴に騒がれて、カモに不信感をもたれてはまずい」と思い、丁重に千グルデンを返してやります。宝石商の箱を手に、「へッへッへ、これが手に入るのなら、千グルデンぐらい…」とほくほく顔の強欲男でしたが、ふたを開けてみたら中身は石ころと干し草ばかり。「ぬう、やられた!」と気づいたものの、文句を言える筋合いもなし。「この世は嘘ばかりでめちゃめちゃだ」と嘆くライヒェンブルガーに、「お前が言うな!」とつっこむ役がいないのが残念です。
欲を張れば欲につまずく。ザックスの劇作の中には貪欲や浪費の悪を戒める教訓がこめられているものがしばしば見られますが、これは彼が国際貿易でにぎわう商業都市ニュルンベルクで活躍していたこともあるでしょう。「ネコババなんかして、わしの信頼と名誉はどうなる」と戸惑う夫に対して、ライヒェンブルガー夫人は「財産が増えると名誉も増えるものです」と言ってのけますが、おそらくそれもビジネスの世界の現実だったのです。
それにしても、不正に対して怒るだけでなく、悪に茶番(笑い)で対抗するサピエンスの姿勢は、実に人間らしい、本当の意味での知恵と言えますね。こうした心の余裕が、他者に対してすぐ攻撃的になりがちな今の社会では欠けているのではないか。そのようなことまで考えさせてくれるから、ザックスの作品はあなどれないのです。(栗原健 キリスト教学)
- テキストは、藤代幸一・田中道夫訳『ハンス・ザックス謝肉祭劇全集』(高科書店)を使わせていただきました。