【備忘録 思索の扉】第五回 書評『レインツリーの国』~1年生向け導入科目『基礎演習』スピンオフレポート~

2018年度前期の1年次生向け授業『基礎演習』は、「あなたの本、私の本」のテーマをたて、自分にとって大切な本について、その本の良さを説明してもらうことにしました。受講生がそれぞれ、自分にとって大事な本を持ち寄ってディスカッションを重ね、レポートにまとめて半期を終えました。

授業の最終日、「誰かに勧めたい本」として、自分の大事な本以外の本を新たにセレクトして持ってきてくれた受講生がいました。有川浩作『レインツリーの国』(新潮文庫、2009年)という小説です。私はありがたくその本を受け取りました。授業担当者として、また、一読書愛好者として、これを読んでレポートをまとめてみました。

注意!ネタバレを含まなかったつもりですが、もしかしたら少し入ってしまっているかもしれません! 本をこれから読むという方、お気をつけくださいませ。

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有川浩『レインツリーの国』感想

 

『レインツリーの国』は、『図書館戦争』シリーズで知られる有川浩が2006年に発表した小説で、2009年に文庫化されている。2015年には文庫版がすでに32刷を数えるなど、有川の「独自の世界観と恋愛要素」(註:カバー袖の著者プロフィールより引用)が多くの読者を獲得している。

物語は、社会人3年目の向坂伸行が、中学生時代に読みその衝撃的なラストに強い印象を受けた小説『フェアリーテール』について、ふと思い立ってネットでレビュー検索をするところから始まる。たまたま見つけた長いレビューの内容に感激した彼は、レビューの作者である「ひとみ」という人物にメールを送る。以後二人はメールでの小説談義を繰り返し、心の距離を急速に縮めていく。やがてデートにこぎつけるが、恋はすんなりとは進展しない。それはひとみが、後天的な聴覚障害により抱え込んできた生きづらさのためだった。二人は、歩み寄ろうとするほどに、傷つき、傷つけ合う。

この物語の世界にあって、読者はあらすじを消極的に追うだけの他人ではいられない。文体も、物語の構成も、レイアウトも、二人の恋物語の中立的な目撃者としての読者の存在を想定している。例えば、小説は伸行の告白のような独り言から始まるが、その後すぐ語りは三人称に変わる。かと思えば、ひとみの一人語りもある。あるいは二人のメールの文面がそこだけ異なる丸いフォントで延々と続いたりもする。さらに、先に心を通じ合わせることから始まる物語構成だからこそ、もはや切り離せない二つの心を結ぶ絆を傷めつける社会の「ままならさ」(19ページ)と卑劣さが浮き彫りになる。そしてこの物語構成は、目次と章のレイアウトによって可視化されている。5つに分かれる章はみな、これから起こる衝突を象徴するセリフを引用しタイトルとしているのである。「…。重量オーバーだったんですね」(55ページ)「傷つけた埋め合わせに自信持たせてやろうなんて本当に親切で優しくてありがとう」(95ページ)など、章が新しくなるたび、ページの真ん中に一言ぽつりと載る生々しいセリフは、二人よりも半歩先んじて、二人を襲う新たなアクシデントを予感させる。そして、読み進めるほどに、二人の人生の闇の奥深くに読者は分け入り、二人を結び合う親密さが幾度も傷を受けるさまを、実感を持って読み取る。このように読者は、いくつもの意味において、二人の心の声と、二人を遠くに近くに見つめる社会の視線の両方の証人として存在することになる。

ただし、この小説を読了する読者のほとんどは、こうしていわば第三の主人公の役目を担わされるのを、おそらくは率先して、了承するだろう。それは、この小説が、障碍者問題を扱う社会派小説である前に、恋愛小説である前に、小説という媒体の持つ本質的な強度を主題としているからに他ならない。伸行は二人の馴れ初めを、「お互いに顔も知らないことが却って短期間で深く知り合わせた」(46ページ)と振り返るが、二人が心の距離を縮めた真の理由は、ほかの誰かに話したくても話せなかった「忘れられない小説」をことばで語り合いたいという、根源的な欲望のゆえではなかったか。イギリスの小説家のヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf, 1882-1941)は「小説は、実人生を正直にかつ丸ごと言葉にしたいとき、私たちが信じてみようと思える唯一の芸術形式だ」と言った。小説は、ほかのどんな表現ともちがう、人間の心の真実を受け止める叙述形式なのだ。そしてそれは、私たち人間がもつ、ことばに対する信頼の証左である。惹かれあう程に傷つけ合い、もはやこれまでと別れを覚悟した伸行が、「彼女は、彼女たちは、耳が不自由な分だけ、ことばをとても大事にしているのだ。第一言語として自分たちに遺されたことばを」(184ページ)とつぶやくとき、読者が心打たれるのは、聴覚障碍者の苦しみを彼が理解したからというよりはむしろ、「障碍者、健常者の区別に関わらず、ほんとうは誰もが、ことばを尽くして人と分かり合いたいと願っているのだし、そう願ってよいのだ」という実感が、伸行とひとみのもがきの果てに、読者にも届けられるからではないか。

ことばだけで伝えられる情報の量は、実際に見ること、聴くこと、話すことによってもたらされる情報の量よりもはるかに少ないだろう。それでも私たちには、ことばという一番シンプルなコミュニケーションツールによってしか伝えられない真実があるのだということを、ぎりりと握りしめて生きたいものだと思う。しかし、握りしめる手がひどく痛くなることもある。有川浩は、ことばのか弱い力が、「リアル」にいとも簡単に圧倒されることも知っている。おそらく、二人をつないだ小説のタイトルが「フェアリーテール」であることも、二人の心に同時に傷をつけたというこの小説のラストが具体的には開示されていないことも、偶然ではないだろう。「おとぎ話」=フェアリーテイルも、開示されないラストも、「リアル」から私たちの内側のもっとも傷つきやすい、もっとも脆い部分を守る、安全地帯なのだ。この小説を読了することはそのまま、その安全地帯をつくる「ことば」というツールへの信頼の醸成であると言ったら言い過ぎだろうか。今の私は、出会った頃の伸行とひとみがそうであったように、ことばをナイーヴに濫用しているだけなのだろうか。この本を読んだ人といつか、このことについて、意見交換をしたい。

 

間瀬幸江(ませ・ゆきえ フランス文化論