前回に引き続いて、16世紀ドイツの劇詩人ハンス・ザックス(1494年~1576年)の謝肉祭劇に注目し、作品と歴史的背景のつながりを見て行きます。今回取り上げるのは「アレクサンダー大王とディオゲネスの対話」(1552年12月)。多くの笑劇とは違い、これは作者の同時代の庶民たちを描いたものではなく、古代アテネを舞台にした作品です。
世界征服の野望に燃えるアレクサンダー大王。彼は学問の都アテネに乗り込んで来ると、「賢い哲人と話したいものじゃ」と考えます。哲学者がよく散策するという場所に来た大王は、そこで奇妙な光景にぶつかりました。男がひとり大きな樽の中に座り込むと、ひたすら紙切れを糊づけしているのです。これぞ知る人ぞ知る犬儒学派の哲学者ディオゲネスでした。
賢者の貧しい暮らしぶりを憐れんだ大王は、「何でも所望するがよい。たっぷり贈り物を取らせよう」と持ちかけますが、ディオゲネスの答えはただひと言、「日陰にならんよう退いて下され。お天道様でこの紙切れが乾かんと困ります」でした。仰天したアレクサンダー、「金持ちにしてやろうと言うのに?」と問いますが、哲人は、大王は自分よりもずっと貧しい、父王が残した領地に飽き足らずに戦争でよその国をかすめ取ろうとしているのだから、と皮肉ります。領土を広げる栄誉などはほんの一時のこと、民に苦しみを残すのみ。「わが輩のほうがそなたより裕福でござるぞ。神と自然が定めたものに満足しとるからじゃ。」 貪欲は貧しさの表れに過ぎないというのですね。
ムッとした大王は、自分がいかに強大な権力を持ち国々が自分に従っているかを自慢しますが、ディオゲネスはこれもスルー。かえって「そなたはわが輩の僕(しもべ)のそのまた僕」と謎めいた言葉を吐きます。そのこころは。自分はもはや欲望と手を切り、これをコントロールして心を乱さぬように生きている。一方、大王はあらゆる欲望に振り回され、その召使となっているではないか。その結果、心は常に不安や疑いに満ちており、落ち着くことができずにいる。「そなたの権力とか統治なんてこんなものじゃ。」
ここに至ってさすがのアレクサンダーも心を打たれ、負けを認めます。が、生き方はそう簡単には変えられぬもの。「軍勢の中で謀反や裏切りが起こるやも知れんからな」と言って、彼は再び陣営に戻って行きました。その後ろ姿を見送った後、ディオゲネスは観衆のほうに向き直ると、「(あの大王は)計略と力づくで、手段をえらばずすべての領土を制圧しようとしております。ご用心、ご用心、王さまのことなど知らん顔の半兵衛で、甘言につられてはなりませんぞ」と警告して幕となります。
アレクサンダーとディオゲネスの故事は、ザックスの創作ではありません。古代ローマの時代から語り伝えられている有名な伝説であり、多くの絵にも描かれています。しかし、ザックスがこの劇を書いた時期に注目すると、彼の隠れた意図が見えて来ます。
1546年に宗教改革者ルターが死去して以来、ドイツは戦禍に見舞われていました。カトリック再興をもくろむ神聖ローマ皇帝カール5世は1547年、プロテスタントの牙城ザクセンに戦争を仕掛けてこれを打ち破りますが、時計の針を戻すような皇帝の無神経な政策に、諸侯や民衆は反発を募らせます。そこで裏切りが勃発。先の戦争の際にプロテスタント陣営を抜け出して皇帝に味方したザクセンのモーリッツ公が、再び寝返って皇帝に奇襲をかけたのです(1552年1月)。不意を突かれたカールは、モーリッツらに譲歩して「パッサウの講和」を結びます。しかし、この動きに満足できなかったブランデンブルク・クルムバッハ辺境伯アルブレヒト・アルキビアデスは、フランケン地方を中心に戦闘を継続し、町や城を荒らし回りました。ザックスがいたニュルンベルクも1552年6月に辺境伯軍の前に膝を屈し、さんざんな目に遭います。そのアルブレヒトも最終的に1554年7月に敗北。国外逃亡を余儀なくされました。
ザックスの劇は、まさにこのような混乱のさ中に書かれたものでした。野望に燃えながらも絶えず裏切りを心配せねばならないアレクサンダーの姿には、カールやアルブレヒトのイメージが重なります。「そんな王公は少しも自由ではない。征服に栄誉などあるものか」と喝破するディオゲネスの言葉に、ニュルンベルクの人々は心から賛同した筈です。一見、古典を再話しただけの凡庸な劇に見えながら、実は時の権力者をこきおろす辛口の風刺ですね。
それにしても、戦争の醜さは今も昔も変わりません。ウクライナやパレスチナでの紛争に揺れる現代の世界にも、ディオゲネスの言葉は重くのしかかって来ます。(栗原健 キリスト教学)
- 出典:藤代幸一・田中道夫訳『ハンス・ザックス謝肉祭劇全集』(高科書店、1994年)、476-485頁。
- 写真:メルゼブルク城のレリーフ