シンポジウム「声を聴く、声をしるす」が開催されます(その2)

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2019年1月11日、シンポジウム「声を聴く、声をしるす~21世紀教養教育考」を開催します。この企画は、宮城学院女子大学一般教育課程の外国語教育に関わる教員による研究グループ「ことばを聴く ことばを育む―複言語・複文化主義と教養教育―」の主導により実現するものです。チラシはこちらからどうぞ

 

「教養教育」の形骸化は20世紀後半からすでに多くの議論を呼んできましたが、宮城学院女子大学の一般教育課程は、一貫してこの「教養」とは何か、という問いに取り組んできました。21世紀に入り20年がたち、この議論を改めて今の言葉で言語化することが必要だと思います。1月11日のシンポジウムでは、この言語化の一つの切り口として、「聴く」という姿勢とは何かについて、議論を深めます。

そこで、教育において、研究において、「聴く」姿勢を貫いてきた、3人のパネリストの皆さんにご登壇いただきます。

シンポジウム関連情報として、前回の菊池勇夫先生の要旨につづき、今日は、言語教育学の今中舞衣子先生と、子ども支援学の安部芳絵先生の要旨をご紹介します。

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「ことばの教師」に聴く―コミュニティにおける変容、継続性と価値の継承―

今中舞衣子(言語教育学)

 

Péka(ペダゴジーを考える会) は、東京で実施されたフランス語教員研修参加者が中心となって、1990年にスタートした。フランス語教育に関心のある人すべてに開かれた自己研修と議論の場であり、一般的な学会や研究会のように特別な手続きを必要とせず、各々が参加したいときに例会に参加する形態で運営されている。

今回、ことばの教師による自主的な相互研修コミュニティの継続性とその変容をテーマとし、Péka に参加する8名のフランス語教師を対象としたインタビュー調査を行った。

彼ら/彼女らの声から明らかになったことは、Pékaという場が参加者の対等な関係性を重視することをコミュニティの共通意識として内包してきたこと、コミュニティの継続に危機が生じた際に何度も対話による問題解決をはかってきたこと、参加者ひとりひとりの個の主体性が様々な形で尊重されてきたことである。

教師たちはどのような視点で自らの職業をとらえ、どのような意識を持ってこの自己研鑽の場を継続させてきたのか。

本シンポジウムではこのインタビュー調査で聴き/記述した様々な声をご紹介し、教養教育における市民性形成の視点と関連づけながら考察してみたい。

 

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子どもの声を聴き、声に向き合う―災害後の支援者が直面した「ゆらぎ」と省察―

安部芳絵(子ども支援学)

 

子どもの声を聴き、声に向き合うことはときとして支援者に「ゆらぎ」をもたらす。とりわけ災害後はそれが顕著である。このシンポジウムでは、災害後に支援者が「ゆらぎ」を感じた子どもの声をてがかりにして、声を聴き、向き合うことの難しさと聴くこと・しるすことが有する力について考えたい。

支援者の多くがゆらいだ出来事に「災害遊び」がある。2018年7月の西日本豪雨の被災地域では「流されちゃったー」と言いながらブロックや人形を倒す様子が見られた。このほかにも「地震ごっこ」「津波ごっこ」「緊急サイレンごっこ」などが報告されている。乳幼児から中学生世代まで幅広い子どもたちが「災害遊び」をしたが、支援者の対応はどのようなものであっただろうか。

子どもたちと活動を続ける中でゆらぎ続け、もう辞めた方がいいのかな…と考えた支援者もいる。言語化できない不安や「もやもや」をノートにしるし、省察しようとするがうまくいかない。ところがあることをきっかけにして自らの支援行為を捉えなおし、子どもとの向き合い方が変化していった。それはどんなことだったのだろうか。

調査をすすめるなかで私自身がゆらいだ2つの場面も検討したい。他者の声を聴き足元がゆらぐような感覚をおぼえるとき、自らの内にある価値観がゆさぶられる。このことをよりどころとして、21世紀教養教育の基盤となるものは何か、共に考える機会としたい。