<連載コラム>旅と人間:フィリピン慰霊の旅 ―太平洋戦争後から今日まで― 

フィリピン慰霊の旅 ―太平洋戦争後から今日まで―

 

人間文化学科 杉井 信

 
 太平洋戦争の激戦地の1つ、フィリピンで戦没した日本軍の将兵と民間日本人の総数は50万人と言われ、戦後、遺族や戦友による慰霊のツアーが繰り返し行われてきた。激戦地フィリピンでは反日感情も強く、慰霊で各地を訪問することは容易ではなかったが、慰霊は全体として、今日まで、ほぼ平和裏に行われてきたと思われる。
 以下、フィリピン慰霊のツアーがどのようなものか、開始の経緯や変遷、課題、展望などを紹介していきたい。

 1945年に戦争が終わり、いわゆるサンフランシスコ講和条約によって日本は国際社会に復帰したが、国土が破壊され戦没者100万人ともいわれるフィリピンの反日感情は強く、二国間の交流はきわめて困難であった。やっと58年に日本政府は遺骨収集団をフィリピンに派遣し、フィリピン各地で慰霊と遺骨収集を行った。これをきっかけに、戦没者遺族や戦友も、みずから慰霊や遺骨収集を行うことを強く望んでいたが、下の写真のようなごく一部の例外を除き、許可されることはなかった。

 衣川舜子著『マニラ湾の夕映え』(恒和出版 1988)より
 
 62年、皇太子のフィリピン訪問が実現した。事前の予想と違い、視線の厳しさよりも歓迎の声の大きさのほうが目立ったとされる。こうした状況変化をうけて、政府は第二次遺骨収集の実施を決め、民間の各種慰霊団による戦跡訪問も始まった。日本遺族会も遺族が戦跡をまわるツアーを開始した。各部隊の戦友会も、みずからが戦った戦場を訪問し、戦友を慰霊するツアーを行うようになり、部隊によっては毎年のように同じ場所を訪問することもあった。
 70年代に入り、フィリピン側の海外観光旅行客の受け入れ推進を背景に、慰霊のツアーも増えてゆき、その数は戦後三十三回忌にあたる77年にピークを迎えたと言われる。また、73年に日本政府によってマニラ郊外に慰霊碑が建立され、各慰霊団の欠かせぬ礼拝先となった。この建立が、民間諸団体による慰霊碑の建立、乱立を促したと思われ、調査によると、フィリピン各地に建てられた慰霊碑は400以上になったと言われる。
 80年代以降、慰霊ツアーは徐々に減少した。21世紀に入り、かつてのツアーの常連参加者が高齢化や死亡によって参加できなくなり、今では、政府と遺族会によるもの以外、慰霊ツアーはごく僅かになっている。だが、まったくなくなったわけでもない、というのが現状である。

 バギオ戦没者慰霊祭 2016年2月16日
 
 ここで、慰霊の団体ツアーを簡単に紹介する。ツアーには、個人旅行も団体旅行もあり、団体旅行でも、例えば同じ部隊の戦友会が、行き先や日程、活動などをすべて決める、オーダーメード型のツアーもある。こうした仲間同士のツアーではない、広く参加者を募集する慰霊のツアーが、60年代後半から今日まで、様々な団体によって計画され、実施されてきた。それらの多くは、訪問先や活動内容、移動手段、宿泊、日程など、様々な点で、今も昔も似通っている。滞在1週間弱、飛行機とバスによる移動の連続で、かなりのハードスケジュールである。戦死者多数の慰霊地の訪問が最優先で、それに合わせて宿泊場所を決めるので、ほとんど観光客が行かないような場所に宿泊する。休養のための滞在や、慰霊と関係のないリゾート地の訪問、滞在は行わないことが多い。

 厚生労働省 令和4年度フィリピン慰霊巡拝日程表より
 
 こうした慰霊ツアーが、70年代後半までは毎年多数、フィリピンを訪れていたが、参加する戦没者の家族や親族、戦友は当然、年を重ねていく。高齢化した遺族、戦友が参加する頻度が毎年から数年おきになり、やがて参加できなくなるのは、自然のことであり、その影響で、公的団体以外の、旅行会社の慰霊ツアーや部隊など小集団ごとの慰霊訪問は次第に減少していった。
 慰霊ツアーの減少は、慰霊者の立てた慰霊碑の維持管理に影響を及ぼす。所有者や管理者、管理の内容や費用の支出元、地域や行政の理解などが、きちんとしていることが大前提であるが、きちんとした取り決めなしに立てられたり、取り決めが履行されなくなったもの、連絡が途絶えたり、支払いが途絶えたりしたものが多数あると言われる。事態が悪化しないよう、きちんと手順を踏んだ撤去作業を早めに行った慰霊碑もあるが、日本側との関係が切れてしまった後、現地側を当惑、失望させ、その後に放置されたり撤去されたものも少なくないと思われる。
 戦没者を直接知る遺族や戦友の多くが亡くなり、その子供世代も高齢化しつつある現在、まったく慰霊の旅が行われなくなったわけではない。国や遺族会は毎年慰霊団をフィリピンに送り出しており、また民間でも、新たな慰霊のあり方が模索されている。
 民間での取り組みとして目に付くのは、戦友会や遺族会などが慰霊碑を立て、これまで頻繁に慰霊に訪れていた地域や自治体に、慰霊の必要経費の支払いとは別に、長年の慰霊受け入れにたいする感謝の印として、何らかの地域貢献を行う、というものである。住民の健康診断、職業訓練、識字教育などを行う生活研修センターを建設した例(2000年)や、台風で校舎が崩れた小学校に新校舎を建設した例(2005年)、土砂崩れ被害がひどい旧激戦地を地元のNGOと協力して植林し、環境と慰霊碑の両方を保護する試み(2008年)、などが新聞(毎日、朝日)で紹介されている。
 これらの地域貢献との関連で私が興味深いと思ったのは、イカオアコという団体である。ここは、かつてネグロス島で戦い生き残った元兵士が戦地に慰霊碑を立て、その地域の人々と交流を重ねる中で、貧困や環境問題に心を痛め、その問題解決を目指して95年に創設した団体である。今日では組織は代替わりし、日本人とフィリピン人が協働で、植林や農業、生活用水の確保、ソーシャルビジネスなど、持続可能な社会を創ることを目指している。旅との関連では、日本からのスタディツアーやインターンを受け入れ、現地の人といっしょに植林や有機農業、井戸掘りを行うなどの活動を行っている。
 もう一つ私が注目しているのは、ブリッジ・フォー・ピース、平和の架け橋という団体である。これは、実は戦友会や慰霊団がルーツではなく、20年ほど前、フィリピンにスタディツアーに行き戦争と平和について真剣に考え始めた大学生が積み重ねた活動が組織化したものである。長年、フィリピンで戦友の慰霊を行ってきた元兵士の経験を語る声、決して戦争を繰り返してはならないという思いや平和を願う声などを地道に記録し続けるとともに、フィリピンの調査旅行、いわば平和のためのツアーを何度も実施し、同じように平和を願うフィリピン側の元兵士の声も記録している。そして、元兵士の考えや思いから若者たちが平和について学ぶためのイベントや学習会を開催している。この団体は、身近な戦没者を追悼するわけではない。だが、そうする際に多くの遺族戦友が感じていた非戦反戦の思いや願いをきちんと受け止め、受け継ぎ、多くの人々にしっかりと伝えようとしており、その点では、慰霊という行動が発展したものだと言えると思う。

 以上、戦後フィリピンにおける戦没者慰霊や慰霊の旅について、その過去と現在を紹介した。今後については、すべて昔どおり、ということはないし、そうならないことが望ましいとは思うが、いままでの活動の延長で、若者たちが、未来志向の活動を開始しており、私はそれを応援したい。
 
参照
 
厚生労働省 令和4年度フィリピン慰霊巡拝日程表(〇は宿泊地、☆は巡拝地)
 https://www.mhlw.go.jp/content/12100000/000767702.pdf

NPO法人ブリッジ・フォー・ピース http://bridgeforpeace.jp/

NPO法人イカオアコ http://ikawako.com/