<連載コラム>病と人間 [1] 病との闘い

 

病との闘い

大平 聡 教授

 
 2011年3月1日、私は、ゼミの学生3人と、当時、最後の調査対象と考えていた気仙沼市立浦島小学校(2013年3月閉校)での調査を終え、「これで気仙沼の調査は終わったね」と気仙沼との別れを惜しみながら、帰路についた。その10日後、あの震災が起こる。再び気仙沼に足を踏み入れることができたのは、約1ヵ月後の4月7日、ようやくガソリンを補給でき、最後の調査に参加した学生に激励の品を携えてのことだった。駅前から海に向かって二つ目の角を右に曲がった瞬間、目に飛び込んできたのは映画で見た「ゴジラが暴れまわった跡」のような光景だった。その学生も家を失っていた。
学生は被災当時1年生。卒業論文は、気仙沼市内で蒐集した小学校の昭和20年までの日誌を素材に書いた。そのお礼と、そして、仮設住宅暮らしで不自由な生活を送っている方々の少しでも慰めにならないかと、学校資料を使って開いた展覧会は、来場された方々の笑顔を引き出すことができた。その後、相次いで校旗をたたみ、閉校していく小学校で、閉校記念展を製作してきた。やっと終わったと思った昨年、さらに3校の閉校が計画されていると知らされ、その準備に着手したところに、この新型コロナの災厄が襲い掛かってきた。

 その1校の大正7年の日誌を読んでいたとき、思いがけない記事に遭遇した。11月26日、校医死去の記事である。葬儀は2日後の28日に行われ、12月11日には児童からの「御悔金」として5円44銭が校医宅に届けられた。学校を頻繁に訪れ、児童の身体検査やトラホーム検診を行い、伝染病の予防注射を行っていた校医は、よほど慕われていたのだろうと思う程度で、そのときは読みすごした。
 日誌抜粋作業を行いながら、今日は感染者は何人だったろうかとつけていたテレビから流れてきた言葉に作業の手が止まる。スペイン風邪の時は、収束まで1年半、2年近くかかったという声に目を上げると、画面に映し出された資料に1918年の数字が見える。大正7年ではないか。そういえば、校医の死去記事直前に、流行性感冒の文字を見た記憶がある。あわてて大正7年度日誌のデータを読み込み、「感冒」で検索してみると、11月15日に分校の流行性感冒の状況確認がなされ、その数日後には本校でも流行し始め、休校になる。校医死去の日には休校が延長されていた。校医は、必死に、地元民のために流行性感冒と戦い、自らも罹患して遂に落命したのだろう。「御悔金」は、そうして亡くなった校医への感謝の気持ちであったのだろう。校医の必死の思い、果たせず亡くなった無念、児童を含めた地元民の感謝、読みすごしていた情景が一気に押し寄せ、胸が詰まった。

 閉校が予定されている残り2校のうちの1校にも、大正7・8年度日誌がある。確認するとそこにも「流行性感冒」の記事が見える。

 これまで歴史的名辞としてしか認識していなかった「スペイン風邪」が、にわかに、現実感をもって立ち現れてきた。私の手元には、この2校以外に県内21校の大正7年度日誌がある。これらを全部分析したら、宮城県内におけるスペイン風邪の流行実態に関する新たな知見を得ることができるはずである。学校日誌には、文章での記述以外、児童出欠欄があり、欠席者数が記されている。物言わぬ数字の羅列と見ていた記録がにわかに「物言う証言者」として立ち現れてきた。誰か、挑戦してみようと思う人はいませんか。

 

大平 聡 教授
研究分野/キーワード:日本古代史、資料論(学校資料)
主な担当科目:歴史・文化史演習
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