9月18日(火)創立記念日を迎えます

学院長 嶋田順好

 19世紀中葉の合衆国改革派教会は、聖公会、長老派、オランダ改革派、組合派、メソジスト派等に比べると日本への宣教師派遣が四半世紀ほど遅れました。同教派から最初に日本へ派遣された女性宣教師がプールボー先生とオールト先生で、1886(明治19)年7月2日に横浜港に降り立っています。そこに10日間ほど滞在している間に、先生方はフェリスを始めとする先発のミッションスクールを視察します。その結果、横浜、東京地域には、もはやミッションスクールを新たに設置する余地はないとの見立てをするのです。その折ホーイ宣教師から仙台に新設する女学校の校長に就任するよう要請を受け、先生は迷うことなくそれに応え、仙台に至ったのは7月16日のことでした。すでに開学準備が進められていて、校主を押川方義牧師とする宮城女学校は、9月18日に創立記念式典を実施し、同月24日から10名の生徒をもって授業を開始しています。

 電光石火の早業とも言えますが、日本に到着して3ケ月もたたないなか、言葉はもちろんのこと、日本の文化や風習にまるで習熟していないプールボー先生が、伊達政宗を祖とする歴史と文化を誇る城下町仙台でミッションスクールの校長となったのです。人間的には不可能と思われるような使命を担うことになりました。

 プールボー先生の場合は、十分な準備をする暇もないなかで文字通りゼロからの出発と言える状況にありました。その歩みが主なる神のご委託に応える光栄に満ちたものであると共に、人間的にはどれほど多くの困難と労苦に満ちたものであったかということは察するにあまりあります。先生が直面した試練と課題を理解するためには、私たち自身に繊細さと愛に満ちた想像力が求められます。

 詩編126編5-6節には次のようなみ言葉が記されています。

 

 涙と共に種を蒔く人は

 喜びの歌と共に刈り入れる。

 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は

 束ねた穂を背負い

   喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

 

 それはまさに最初の4人の卒業生を送り出した時の先生の思いそのものであったに違いありません。創立132周年を迎えるわたしたちは、プールボー先生の最初の献身と愛を心に刻み、今、この時、涙と共に種を蒔く労を厭うことなく、喜びの歌と共に刈り入れる望みに生きる者でありたいと願います。

 

プールボー先生東三番町校舎

神の導きによって,志高い若き女性宣教師プールボー先生らが海を渡り、1886年仙台の地に女学校を創設しました。創立から3年目の1889年には東三番町校舎での授業が始まりました。

建学の泉航空写真2

1945年仙台空襲により校舎の多くを喪失したものの、1947年には新学制による「中学校」翌年には「高等学校」を設置。 1949年には英文学科と音楽科を擁する「女子大学」が開設されました。創立100周年を控えた1980年には東三番町に別れを告げ、現在の桜ヶ丘キャンパスに移転しました。

生誕劇  大学祭

2011年宮城学院自身も東日本大震災による被害を受けつつ、その後の被災地に向けた支援活動はさまざまな形で現在もなお続いています。

2016年「女子大学」は4学部9学科に改組、同年「大学附属森のこども園」が開設しました。2019年「高等学校」では新コース制を導入。プールボー先生の意思を引き継ぎ、次代に向けた宮城学院の取り組みがはじまっています。