【備忘録 思索の扉】第三十一回 「基準を持つということ」

皆さん,あけましておめでとうございます。

 

このコーナーでは,ここしばらく1月に新年の挨拶とともに,中国語の授業実践報告をしていました。

けれども,もっと以前は,私のエッセイを掲載したことから始まったものでした。

今回は,ちょっと書きたいことができたので,初心に帰って(?),本来の「備忘録 思索の扉」らしい内容のエッセイを載せることにします。

何か活動をするとき,「目標」を設定することが,時々あるかと思います。

その目標を,もっと色んな活動において設定するべきだ,という話です。

「目標」と言うと,何か頑張らなければならない感が出てくるので,もう少し広く「基準」と言い換えたということです。

私が実践している身近な例を挙げます。

私は,毎朝必ず体重を量るようにしています。

最近は,体重計と連携させてデータを記録するようなスマホアプリもあるので,とても便利です。

もちろん,健康管理のためにやっているのですが,ここで大事なのが,ただ漫然と量るのではなく「基準」を設定することです。

自分としては,どれくらいの体重でありたい,という数字を,自分で勝手に決めておくのです。

そうしたうえで,量るたびに,基準より上だったのか下だったのか,「一瞬だけ」振り返るのです。

このとき,「目標」と違って,この基準値をそれほど重く考えてはいません。

もし基準より多かったなら,最近少し食べすぎたかな,と思う程度です。

もし基準より少なかったなら,もう少し食べた方が良いかな,と思う程度です。

それでも,自分のことを何も知らずに生活するよりも,確実に健康管理ができていると思うわけです。

あるいは,重く考えてストレスになるよりも,健康的に健康管理ができているとも思います。

体重というのはあくまで一例ですが,ただ,こと体重となると,日本社会にはダイエット強迫観念がまかり通っているので,この私の方法はさらにお薦めです。

つまり,自分のなかで基準を決めてしまえば良いのです。

逆に言うと,自分のなかに基準がないから,世の中に振り回されてしまうのです。

自分のなかで,納得できる基準を決めて,そこに近づけるように少し意識する。

そうすると,基準と現実以外の余計な情報が入り込む余地はなくなり,自分のペースを保てることでしょう。

言うまでもなく,この考え方はあらゆる活動に応用可能です。

体重のような「数値」でなくても,たとえば「大事なことを後回しにしない」というような曖昧な基準でも構わないでしょう。

要は,自分が「本当にありたい姿」を言語化し,そこに近づいているかどうかをこまめに確かめる。それだけです。

また,初めに設定した基準が,やってみたら難しいものだったなら,基準を変えれば良いのです。

そうすることで,自分のことを一歩深く知れたということなので,それだけでも大いなる進歩ですから。

自分が大事だと思うことに関して,自分なりの基準を持てば,きっと強くかつ穏やかに生きていけることでしょう。

余談ですが,私の使っているスマホアプリには,「AIによるアドバイス」という今らしい機能がついています。

しかし,そのアドバイスは,私が設定した基準を全然考慮したものではないので,とても残念です。

そういうのはきっと,何か商品を売りつけるための制作者の目論見だったりするのでしょうね。

「世の中に振り回される」というのは,こういうところから始まるのだろうと,あらためて実感したのでした。

(小羽田誠治 中国語・東洋史学)