宮城学院女子大学は建学の精神にある通り、キリスト教を基盤としています。キリスト教の暦で今週4月2日(日)は「棕櫚の主日」と呼ばれる日でした。イエス・キリストが王としてエルサレムに入城し、民衆が棕櫚の葉を振り歓迎したという故事に基づいています。『聖書』はこの光景を次のように記しています。「子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた」(ルカによる福音書19章35~37節)。古代の文化社会でしばしば観察された凱旋行進の光景です。敵との戦いに勝利した将軍や王が颯爽と入城し、人々は歓呼の声を上げて迎えます。その意味では、この時にイエスもまた戦いに勝利した王として、エルサレムの都へ入城しました。
ところでイエスの姿には、他の凱旋行進における王の姿と大きく違っている点が一つありました。それはろばに乗っていたことです。古来、王が乗り物とする代表的な動物といえば馬でした。馬は戦闘用の動物として最も優れていました。足が速くて背が高く、戦場で敵を蹴散らすのに長けています。暴力的な軍事力を権力の源とする王たちは、最も優れた馬を選び出し、自らの乗り物としました。王がどれだけ優秀な馬を確保できるかは、戦いにおける勝敗に決定的な意味を持ちました。馬というのは軍事力を象徴しています。地上の王の力は常に、軍事力を背景としています。どれだけ高性能で強大な軍事力すなわち暴力を手にするかが、王の支配力と権力を決定づけます。現代でもある権力者たちは軍隊のパレードや演習を重要視します。それは軍隊の最高指揮官であることが、権力の源であるからです。
馬に象徴される王と軍事力との結びつきに対して、イエスの王としての姿は極めて異色でした。イエスは、ろばに乗る王として自らを現しました。馬が誇る能力と比べれば、ろばのそれは明らかに劣っています。馬に比べれば、ろばは足はのろく、短足で不格好です。けれども、ろばには馬が決してかなわない力があります。重荷を運ぶのに適した耐久力と忍耐力がその特徴です。そうした特徴を持ったろばですから、人々が力尽きて自分の力で歩くことがかなわなくなったとき、弱り傷ついた者たちを乗せて運搬することにこそ、ろばは力を発揮しました。
イエスは、戦いに勝利した王として入城しました。それは軍事力によって人々の上に君臨する王としてではありませんでした。傷つき弱った者を背負い、その重荷を担う、仕える王としての姿が、ろばに乗る王として現されています。
大学での学問的思索というと、なにかとてつもなく大きなことを考えなければならないようなイメージがあるかもしれません。しかし実は自分のふとした疑問、小さな違和感を「なんでだろう?」という問いにするとき、私たちは思索の扉を開けて学問の広い世界へ入っていくことができます。今回は「多くの王は馬に乗るのに、なぜイエスはろばに乗ったのか?」という問いから広がる世界をご一緒に観てきました。キリスト教は中東から始まって、ヨーロッパ・アメリカそして世界の文化や社会、そして学問に大きな影響を与えてきました。宮城学院女子大学での学びは、キリスト教の知的遺産を掘り起こし、一見関係なさそうな現代の日本社会や世界の事柄とつなぐ経験でもあります。
松本周・キリスト教社会倫理学 / 宗教学