<連載コラム>旅と人間:真備の旅

真備の旅

大平 聡

吉備真備は、生涯旅をし続けた人ではなかったかと思う。

もと下道真備と称した真備を、吉備地方(現岡山県)の出身と考える人もいる。それは恐らく間違いである。真備の父親は、確かに岡山県に生まれた。弟ともに母親を埋葬した確かな証拠、兄弟の名を記した母親の蔵骨器が発見されているからである。真備の母親の墓は大和地方(現奈良県)で江戸時代に発見され、墓誌の銘文の拓本が伝えられている。岡山に生まれ、飛鳥、藤原京で官僚の道に進んだ真備の父親が、奈良盆地に住んでいた女性と結婚し、生まれたのが真備であった。

真備は、奈良盆地で下級貴族(貴族とは5位以上の位階を有する人)の子どもとして生まれ育ち、大学に入って儒教を中心に学んだものと思われる。その才能が見込まれ、716年、遣唐使とともに留学生として唐に渡り、735年に帰国するまで、約20年間、様々な学問、技芸を学び、帰国すると大学で後進の指導を行った。

その才が、聖武天皇の目にとまる。皇太子阿倍内親王の教育係に任ぜられ、やがて皇太子のために置かれた役所(春宮坊=とうぐうぼう)の長官となった。女性皇太子として将来の即位が見込まれ、苦難の道が危惧される女(むすめ)の将来を思っての登用であったろう。真備は、中国仕込みの政治哲学、帝王学を教えたことは間違いない。

聖武の母、藤原光明子は、阿倍内親王の教育に力を注いでいた。特に、仏教の手ほどきは、自らの経験を踏まえ、母親から女に伝授するものとの思いが強く、聖武との確執も垣間見られる。真備の影響を強く受けつつある皇太子阿倍を、光明子は心穏やかに見ていることができなかったのであろう。聖武が病に冒されると、光明子は、甥の藤原仲麻呂と結託し、真備を九州の国司として左遷する。

左遷された真備であったが、再び唐に渡るように指令が下る。かつて真備とともに唐に渡り、帰国船の難破で中国にとどまる阿部仲麻呂を帰国させるための中国側との交渉がその主要な任務であったと思われる。交渉には成功したものの、阿倍仲麻呂の乗船はまたも難破し、阿倍仲麻呂は遂にその生涯を中国で送ることとなった。

帰国した真備は、大宰府の第一次官(大宰大弐)に就任すると、仲麻呂が政権引き締めを狙って始めた対新羅戦争の準備のために、怡土城建設の指揮を執った。これも、20年に及んだ中国留学の成果の一つである。自分を左遷した仲麻呂の命令ながら、真備は自己の能力を注ぎ、与えられた仕事を成し遂げたのである。

都では、聖武死後、光明子―藤原仲麻呂により、天皇の座から引き下ろされた孝謙上皇(阿倍内親王)が、帝王としての自意識を次第に強くしていった。亡父聖武の意図と、その実現に尽力した吉備真備の教えを、漸く我がものとした結果であったろう。孝謙上皇と仲麻呂の仲は、次第に険悪なものとなっていった。仲麻呂は、その関係改善を真備に期待したと思われる。真備を造東大寺司長官という役職に任じ、都に招き寄せる。

しかし、真備は都に戻ると、体調不良を盾に、自邸に引きこもり出仕しなかった。仲麻呂の思惑は見事に外れた。行き場を失った仲麻呂が遂に孝謙上皇に叛旗を翻すと、この機を待っていたとばかりに真備は孝謙上皇の朝廷に出仕し、唐仕込みの軍学の知識を駆使して仲麻呂の欄の平定に尽力した。

再び天皇の座に着いた称徳の朝廷で、真備は重要な官職を歴任し、右大臣にまで昇った。一方、称徳は政治のブレーンに道鏡を迎え、強引な政治運営を進めた。真備はどのようにその光景を見ていたのであろうか。

称徳が死去し、道鏡も失脚して、天智天皇の系譜に連なる白壁王が即位(光仁天皇)しても、真備は重用され続けた。真備の公正無私な政治姿勢が評価されてのことであったろう。高齢となった真備は天皇に官職の辞任を求め、許されて無官となった後、最後の旅に出る。享年81歳。

真備の人生は「旅」の連続であった。旅のどの場面でも、真備は全力を尽くしている。自己の身につけた学問成果を、その時々に置かれた自己の役割に十分生かし続けた一生であった。死後数百年たった鎌倉時代に入っても、その学者としての評価は揺るぎないものとして語り継がれている。

学問に裏付けられた信念に従い、社会の役割に答え続けた吉備真備を、私はこの10年間の大学生活の導きの糸としてきたことをここに告白する。

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